前回は湾岸文明の先史までを書いたが、今回は文明の時代に入る。

  • ウンム・ン=ナール文明 誕生の背景
  • 銅山開発、銅製品、「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」
    • バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群
  • ウンム・ン=ナール文明と「ディルムン」と「マガン」、「メルッハ」
    • アッカド王朝初代王サルゴン治世
    • アッカド王朝四代目ナラムシン治世
    • ウル第三王朝時代
  • ウンム・ン=ナール文明の滅亡

前回の記事でハフィート期(ハフィート文化)を紹介した。 ここにヒーリー8遺跡が出てくる。

この遺跡は次の時代すなわちウンム・ン=ナール文明の遺物も出土するので、ハフィート期を第Ⅰ期(前3100-2800年)、第Ⅱ期をウンム・ン=ナール期(前2800-2000年)としている。

ウンム・ン=ナール期の文化は、ハフィート期の文化が経年変化したもので、前2500年頃になると、湾岸で最初の国際性の高い都市文明が成立する。アブー・ダビーのウンム・ン=ナール島にはその首都と首都住民のための墓地が作られた。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p107

ハフィート期にはイラン(テペ・ヤヒヤ)からの人々が現在のアル・アインに移住してきた。彼らは故郷の黒色彩文土器(BOR)をアル・アインの土で作った。ヒーリー遺跡ではハフィート期(第Ⅰ期)を通してBORが出土し、ウンム・ン=ナール期の第Ⅱa~c1期までその傾向が続く。

[しかし]第Ⅱc2期〔前2500年〕になると、地元で作られた砂質の「ブライミー式」土器が出現し、以後のかく時期では全体の95%以上を占めるほどに増加する。第Ⅱc2期におけるこの画期は、生活文化の大きな変化、すなわちこの土地において独自の都市文明が成立したことを反映している。そして以後BORは副葬用に限られることとなり、集落遺跡からは姿を消す。

出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p108

「ウンム・アン=ナール<wikipedia」によれば、この地名の意味はアラビア語で『火の母』を意味する。アブダビ島の東南に位置する小さな島である。

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出典:ウンム・アン=ナール<wikipedia

ウンム・ン=ナール島の居住期間は前2700-2200年だが、この島は前2500年頃に特別の人々が住む特別の場所になった(ソポタミアとインダスのあいだ/p111)。前述のヒーリー遺跡にも「立派な家系」の存在を示す立派な墓が発見されて、この文明の二大拠点の一つであった(p120)。

ウンム・ン=ナール文明 誕生の背景

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出典:後藤氏/p66

ウンム・ン=ナール文明はインダス文明とイランのトランス・エラム文明と同じ時期(前三千年紀中頃)に誕生している。

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出典:後藤氏/p113

イラン地方の人々はメソポタミア文明誕生以前からメソポタミアとの交易を行なっていたが、メソポタミアの文明が大きくなるに従って、イランの交易ネットワークも拡大した。

全体図を考えてみよう。イラン高原には、原エラム文明以来、ラピスラズリの産地であるアフガニスタン北東部、バダクシャン地方にあるショルトゥガイから東南部のムンディガク、セイスターンのシャハル=イ・ソフタ、ケルマーン地方のシャハダード、テペ・ヤヒヤというルートがあった。ヤヒヤからはファールス地方を経てエラム地方のスーサに至る南回りの路があった。もう一つはシャハル=イ・ソフタからイラン北部のテペ・ヒッサールに至り、テペ・シアルク経由でスーサに至る北回りの路である。南北の路は、世界有数の乾燥地帯であるルート砂漠を迂回している。これに海路がリンクするとどうなるのか?テペ・ヤヒヤから海岸(ホルムズ海峡)に至る路があったに違いない。ここから海の世界が始まった。ハリージー〔アラビア海(ペルシア海)の運搬に携わる海洋民〕たちは、イラン側とアラビア側を普通に往来していた。そしてマクラーン海岸に沿ってインダス河口に至るルートを開発した。[中略]

インターネットがそうであるように、「網」というものは、ルートの変更が容易に可能である。たとえ途中に通行不可の箇所が生じても、それに次ぐ別ルートが使用できる。陸海のネットワークがリンクすることで、人とモノはどこへでも移動することができるようになった。

出典:p113-114

このようにウンム・ン=ナール文明は巨大化した物流ネットワークの一部として誕生した。ウンム・ン=ナール島に「立派な家系」と首都機能と独自の文化が現れたが、基本的にはトランス・エラム文明を動かしている人々に従属的だったろう。ちなみに、アラビア海内のタールート島(上の地図参照)には古式クロライト製品の「第二工房」が設置されている(主工房はテペ・ヤヒヤにあり、その周辺(現在のケルマーン州)から原石と工人が島に運ばれた。古式クロライト製品については記事「エラムまたはイラン(その2)トランス・エラム文明」第二節「主力輸出品、ラピスラズリと「古式」クロライト製品」参照)。

銅山開発、銅製品、「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」

ウンム・ン=ナール文明は前の時代(ハフィート期)に引き継ぎ銅山開発が行われていた。

バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群

前回の記事でアラブ首長国連邦の「アル・アインの文化的遺跡群」を紹介したが、この遺跡の国境を挟んだ隣にオマーンの「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」がある。どちらの遺跡群も世界遺産登録されている。

「バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群」は、世界遺産の公式のページ「Archaeological Sites of Bat, Al-Khutm and Al-Ayn」によれば、その始まりは前三千年紀だということだ。アフダル山地の銅鉱脈からの採掘、精錬、銅製品作成を行ない、メソポタミアへ輸入した。

発掘された遺物群によれば、ウンム・ン=ナール文明圏の銅製品は釣り針、縫い針、剣、斧がある。後藤氏は「ウンム・ン=ナール文明はオマーン半島の銅を採掘し、初期の加工を行なった後に、製品を遠隔地へ個繰り出すという目的でオマーン半島に作られた文明である」と主張する(p139)。

前三千年紀には青銅器時代が到来していたが、この文明圏では青銅器の出土品はほとんど無い。

ウンム・ン=ナール文明と「ディルムン」と「マガン」、「メルッハ」

アッカド王朝初代王サルゴン治世

サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。

キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。

王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。

ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。

5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)

サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。

メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島のオマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともに銅の交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。

サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p175-176

初期王朝時代までは、メソポタミア人には「マガン」や「メルッハ」の地名は知られていなかった">*1が、アッカド王朝初代サルゴン王の頃には知られるようになった。

上の「マガンはアラビア半島のオマーン」というのがウンム・ン=ナール文明のことである。

アッカド王朝四代目ナラムシン治世

アッカド王朝四代目ナラムシンの治世になるとペルシア湾はマガンの海(または下の海)と解されるようになる。これは交易の海路の中継地がディルムン(バーレーン)からマガン(オマーン)に代わったことを示すのだろう。ウンム・ン=ナール文明の人々がペルシア湾の海(とその交易)を牛耳っていた。

彼(ナラムシン)はマガンを征服し、マガンの支配者(EN)マニウムを捕虜にした。その(マガンの)山で彼は閃緑岩を掘り出し、彼の市アッカドに運んだ。(その石で)彼の像を造り、[―神に奉納した]

出典:前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p103

ナラムシンはマガンに遠征して支配者を捕虜にしたが、マガンを直接支配することはなかった。ウンム・ン=ナール文明は続いたことは考古学の遺物から明らかだ。

もうひとつ、マガンからは閃緑岩は採れない。これはメソポタミアへの輸出用のイラン地方の石材(閃緑岩)をマガンが保管していたものをナラムシンが奪ったのだろう。『メソポタミアとインダスのあいだ』(p141)には、これを「国家によるきわめて積極的な経済活動の一つ」と解している。つまりマガンが閃緑岩その他の交易品の値段を高く設定していることに対して武力で対抗した結果だということ。

後藤氏は上のナラムシンの碑文(?)を次のように解している。

こうした記事のもつ支配者の「業績表」という性格から、もし相手国の出先も本土もことごとく攻略に成功したのであれば、彼の祖父サルゴンがそうしているように、個別の地方名をことごとく、時には必要以上に列挙して誇るのが普通であり、単に「マガンを征服した」などとはかかないのである。このように単一の征服地名を記していることは、マガン国の一部、おそらくメソポタミアから地理的に最も近い一拠点を攻撃し、政治的および経済的目的を達成したことを示しているのである。

出典:後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/p142-143

ウル第三王朝時代

ウル第三王朝時代になってもウンム・ン=ナール文明は健在だった。

この時代になるとメソポタミアとメルッハの直接交流が無くなる。さらにディルムンの言及が激減し、マガンの地名は頻繁に言及される。つまりマガンがペルシア湾交易をほぼ全部を担っていた。いっぽうメソポタミアからも頻繁にマガンに出向くようになり、メソポタミア―マガン間の交易は国家としても かなり重要なものになっていた。この交易を管理する最高責任者は王族も就くことがあった高い地位にあり、中央政府と直結していた。*2

マガンの方の動きを見ると、彼らはメソポタミアに より近いバーレーン島に積極的に移民をしていた。上にある年表(考古学の編年表)のバハレーン(バーレーン)島のⅠa,b期の遺物は土着のバールバール式の土器が大多数だが、少量ながらマガンの土器も出土する。ウンム・ン=ナール文明は前2000年頃に衰亡するが、上の移民行動は文明の移転つまり中継地の移転の前段階だった、と後藤氏は主張する(メソポタミアとインダスのあいだ/p146-152)。

ウンム・ン=ナール文明の滅亡

すぐ上で既に書いてしまったが、この文明はオマーンからバーレーン島に移転した。オマーンの「銅鉱山プラス中継地拠点」という利点を捨てて、よりメソポタミアに近いバーレーンを中継地拠点に選んだ。

イシン・ラルサ時代以降のことになるが、マガンの銅供給地としての役割も無くなってしまった。

こののち銅はアナトリア、東地中海地域からメソポタミアにもたらされるようになる。ほぼ時期をおなじくして、東方ではインダス文明が姿を消す。もはやメソポタミアの人々は、メルハをインダス河地域と認識できなくなるであろう。

出典:前川和也・森若葉/2007



「オマーン半島」というのは正式な地名ではないようだ。

*1:前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>

*2:前川和也・森若葉/2007